木村タカヒロ日記 バックナンバー
日時 | タイトル | 配信数 |
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2018/10/22(月) 10:00 | 【木村タカヒロ日記】Vol. 234 父、旅立つ。 | 99 |
2018年10月22日
おはようございます。木村タカヒロです。
10月19日、自宅で寝たきりだった父が逝去しました。
その日は朝から出かける用事があり支度をしていると
近所に住む母が血相を変えて飛んできました。
「パパが起きないの!どうしようどうしよう」
急いで行ってみると、
介護ベッドに横たわる父の顔は
明らかにいつもと違っていて、
すぐに死んだとわかりました。
僕は神奈川に住む妹、ケアマネージャー、
かかりつけの病院に電話をしました。
いつも来てくださっている訪問介護の女性が
すぐに駆けつけてくれて、
開きっぱなしの口に入れ歯を入れ、
ヒゲを剃り、身体を拭き、
いつも父が着ている
派手なシャツに着替えさせてくれました。
続いて病院の先生が来て、心肺停止と、
瞳孔が開いていることをを確認しました。
しばらくして妹も到着し、
父に抱きついて号泣しました。
父は前日までいつもと何も変わらず、
僕が夕方訪れたときも、
「きょうもありがとう」と普通に
しゃべっていました。
夜に介護の方がいらしたときも
変わりなかったそうです。
きっと、眠ったまま、
夜中か朝方に息を引き取ったのでしょう。
顔はうっすら微笑んでいて、
楽しい夢でも見ているような表情でした。
ずっと前に、父が、
「俺は楽しく生きて、最後は眠るように死にたいんだ」
と話していたのを思い出しました。
その通りの最期でした。
80年間の人生は、楽しかったと思います。
ただ、最後の2年余りは辛そうでした。
何も用事がなくてもパトロールと称して
街を徘徊するほど、外出が好きだったので、
病院と家のベッドに張り付けにされた2年間は、
地獄のような日々だったと思います。
でも、どうにもならない現実を
徐々に受け止めていきながら、
どんどん魂は成長していき、
もうこの世でやるべきことは済んだと
悟ったのでしょう。
そんな表情でした。
父の顔を眺めながら、一瞬、
死顔を描こうかと考えましたが、
すぐに、白々しいなと思い、やめました。
■
僕は、ワークショップで地方に行くとき以外は
毎日午前中と夕方に父のところに行き、
ジューサーで人参ジュースを作ったり、
ベッドから起き上がる練習をしたり、
パンパンにむくんだ足をマッサージしたり、
腕を鍛えるのにゴム製エキスパンダーを
引っ張り合ったりしていました。
これらを厳格に全部遂行していたかというと
全然そうではなく、僕の気分によって、
やったりやらなかったりでした。
父に対して僕はいつも、
「面倒くせえなあ、もう」とか
「もっとしっかりしろ」とか
「いいから笑ってみろ」とか
なんだか厳しいことばかり言っていました。
今思うと、
なぜ自分はこんなキャラ設定をしてしまったんだろう、
もっと同情心をもって穏やかに接することも
できたはずなのに、なんて少し後悔もしました。
そういえば父は、僕のことを、
子供の頃は「ター坊」と呼び、
大人になってから「タカヒロ」になり、
最近では、母と同じように「おにいちゃん」と
呼ぶようになっていました。
いつも母に
「こんど、おにいちゃんはいつ来るの?」
と聞いていたそうです。
僕は父のことを、子供の頃は「パパ」、
そして「おとっつぁん」となり、
最近は「おい、圭市郎」と呼んでいました。
ここ数週間は、かなり身体も弱って、
限界に近づいていたのかもしれません。
母から「ぜんぜん笑わないし喋りもしない」
と聞くことが多くなりました。
それでも僕が行って、
変な顔をしたり、変なダンスを踊ったり、
「おい圭市郎、笑え!」と強要すると、
嬉しそうに笑っていました。
いま思うと、僕の期待に応えるために、
精一杯笑顔を作っていたのかもしれません。
■
ケアマネージャーの方に
葬儀屋を紹介してもらい、電話をしました。
いくつかコースを教えてもらいましたが、
家族だけの、一番シンプルなやつにしました。
父は友人はおらず、人付き合いもなかった。
死に顔を見られるのは格好悪いと思うはず。
うちは無宗教(というか木村教)なので、
お坊さんのお経も必要ない。
僕の娘二人にとっては、身内が亡くなるのは
初めての経験(妻の両親も健在)だったので、
どんな反応をするかと思ったら、
父の亡骸の前でキョトンと立っているだけで、
涙もなく、無反応でした。
20年以上前に母方の祖母が亡くなったとき、
父は告別式に遅れてきて、
親戚中のひんしゅくを買いました。
母も「なぜこんな大事なときに遅刻するの!」
と激怒しました。
父はそのときはムスッとして
何も言いませんでしたが、帰りの車のなかで
「仕事の打合せが入ったんだよ。
生きてる人間との約束のほうが大事だ。
天国のおばあさんだって、そのほうが喜ぶだろ」
と家族に打ち明け、
再度、ひんしゅくを買いました。
今ではそれが真っ当な考えとわかるので、
娘二人には、亡くなった当日も、
友達と会う約束があるなら行ってきな、
と伝えました。
■
亡くなった日の晩は、
母と妹と3人でお酒を飲みながら
夜中まで父との思い出を語り合いました。
それぞれ感情が込み上げてくるポイントが
異なっていて、同じ事柄でも、
笑う人がいて、泣く人がいて、面白いね、
なんて会話をしました。
母はもともと酒グセが悪いので、
お酒が回ってくると、泣いてばかりになり、
すぐに立ち上がって、
「納得できない。パパに文句言ってくる!」
といって部屋を出て、
父が眠っている冷房で冷えきった部屋に行っては、
「返事しないのよ〜まったくもう」と言いながら
戻ってくる。
そんなことを繰り返していました。
僕も酔っ払ってきたので、
「ちょっと俺も行ってくる」といって、
父のところに行き、冷たくなった顔を
さすりました。
「お父さん、本当にありがとう。
あなたは僕の誇りです」
という言葉が自然に出てきました。
お父さんだなんて、初めて呼びました。
なぜ、誇りなのだろう。
父は、世間一般のお父さんとしては
失格だったし、社会人としても
全然ダメな人でした。
それなのに誇りとは、どうしてだろう。
もしかしたら僕は父に、
「タカヒロ、俺の人生はこれでよかったのかな?」
と、問われたのかもしれません。
そして僕は答えた。
「大丈夫。
あなたがこの世に生み出したものは
最高にカッコいい。世界一だ。
誰がなんと言おうと、俺の誇りなのだ。
それで十分じゃないか」
■
「お兄ちゃん、パパとなに話したの?
目が真っ赤だよ」
二人がいる部屋に戻ると妹が言いました。
続けて母がまた「もうひとこと言ってくる!」
といって部屋を出ました。
30分ほど経過しても戻らないので
様子を見にいくと、
父の布団に入り、ぴったり寄り添って、
スヤスヤ眠っていました。
僕はそのままにして妹のいる部屋に戻り、
「仲良しだねえ」と二人で笑い、
僕たちも眠ることにしました。
いままで感じたことのない、
長い長い1日が終わりました。
■
ではこれから、父を見送ってきます。
笑って見送りたいけど、無理かなあ。
良い一日を!
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